今月の一枚

2008年8月 サクラフレックス ヘキサー・シリーズⅡ 75mmF3.5

サクラフレックス正面右から。

背面から。

デュラックス・シャッターとヘキサー・シリーズ2 75mmF3.5レンズ。

巻き上げ機構部。

各部をばらばらになるまで分解して、清掃して再組み立てを実施。

作例1 浅草寺大開帳案内 1/150 F11 フジ160Sプロ

作例2 本堂落慶50周年 1/150 F11 フジ160Sプロ

作例3 衣装店 1/150 F5.6 フジ160Sプロ

 

解説

サクラフレックスは、我が国最初のカメラメーカーであった小西六が太平洋戦争に突入する直前の昭和15年(1940年)に試作した、コニカ初の二眼レフカメラです。6x6cm判フォーマットです。この1940年に小西六は、国産初のカラーフィルム「さくら天然色フヰルム」を発売しています。  優雅な名前のサクラフレックスの構造は、6x6cm判二眼レフの基本形とも言える縦長直方体をしていて、レンズとシャッターが備わった前板部全体を繰り出してピント調整する、本格的な構造の二眼レフでした。

シャッター・ユニットは国産のデュラックス(Dulax)で、1秒~1/150秒の範囲でシャッター速度を調整でき、T(タイム)、B(バルブ)も可能です。シャッターチャージはフィルム巻き上げとは連動しておらず、単独でセットします。レリースレバーもシャッターユニット直付けで、そういう部分はまだ原始的な構造でした。  しかしフィルム送りは、裏蓋の赤窓にフィルム裏紙の1を表示させてからカウンターを1にリセットした後は自動巻止め式になっています。送り解除レバーを操作して、送りノブを回転させると次のコマで停止します。ですから、二重写しやから写しに注意が必要ですが、撮影は赤窓式のフィルム送りのカメラより早くできますし、当時としては高級な機構でした。

ピントフードは跳ね上げ式で、ピントルーペを内蔵しています。ピントグラスは、一般的な磨りガラスでした。  ビューレンズと撮影レンズは、いずれも同じヘキサー・シリーズⅡ 75mmF3.5で3群4枚のテッサータイプです。ヘキサーレンズは1931年(昭和6年)小西六が、ドイツのイエナにあるカール・ツァイス社の関連会社であり当時世界最高の光学ガラスを生産していたショット社から光学ガラス(いわゆるイエナ・ガラス)を輸入し、自社で研磨してテッサータイプのレンズの開発に成功した時に、「六」をギリシア語でヘキサと呼ぶことからヘキサーと名付けたといいます。我が国のレンズ史を語る上でのスタートポイントと言えるでしょう。

戦前小西六は光学ガラスは自社製造していませんので、このサクラフレックスのヘキサーレンズのガラス材も、イエナ・ガラスが採用されているのではないでしょうか。そのヘキサーシリーズ2レンズ(昔の文献でこのレンズをヘキサーサーと書いているものが時々ありますが、誤りでしょう)の描写は、作例をご覧いただければわかるように、テッサータイプのレンズらしい周辺まで端正な描写で、逆光ではややフレアが多めですが現在でも実用できる高性能なものです。

サクラフレックスは、日本カメラ工業界の名門中の名門、小西六が製造しようとしたカメラだけあって(製造は小西六の当時の製造部門、六桜社なので、各部にRokuoh-shaと文字が入っています)、各部の品質や精度はしっかりしたものです。そのため重量も約1,180gと大変に重いカメラです。サイズは約79x145x97mmでした。

素晴らしい描写性能を持つヘキサーレンズを備えた、この魅力あふれる二眼レフカメラは、しかし太平洋戦争直前の物資不足のため、部品調達ができないという理由により、量産は中止されてしまいました。試作機の数はたったの数十台ということで、市販されていないこともあって、現在ではクラシックカメラ・コレクターの間では幻の二眼レフと呼ばれているそうです。欧米のクラシックカメラのオークションにも登場した記録がみあたらないので、どの程度の評価が適切かわかりませんが、もしそうしたオークションに登場すれば落札価格は数百万円に達するのではないでしょうか。先年、ヘキサー50mmレンズを備えた、これまた幻の35mm判二眼レフとしてあまり有名なアイレス写真機製作所製のヤルーフレックスがヴェストリヒト・フォトグラフィカ・オークションに登場し、約500万円で落札されたことは記憶に新しいところです。稀少カメラの価格高騰は今後も続くことでしょう。

さて、このサクラフレックスは文字どおり博物館級の珍品カメラですが、今回お客様から修理を依頼されたこのカメラとは別に、もう一台のサクラフレックスが早田の修理机の上にあったのです。これほど珍しいカメラが2台並ぶというのも、不思議な縁を感じざるを得ませんでした。早田も今回のこのサクラフレックスの修理は、長い人生で(?)初めての経験でした。また一台修理記録が増えたこととなりました。